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「証言」発行にあたって

 連合赤軍事件から30年以上の歳月が過ぎ去りました。
 事件当時に産まれた子供たちが成長し、結婚し、新しい生命を育むに足りるほどの年月です。
 この間、私たちは犠牲になった仲間たちのことを、ひと時も忘れることはありませんでした。

 残された私たちに、何ができるか。
 これが、16年前の1987年に「連合赤軍事件の全体像を残す会」のささやかな活動を始めた時の出発点でした。
 人民の運動史に大きな傷跡を残した私たちはなにをなすべきか?
それぞれの持ち場で、かつての私たちの理想を引き継ぐ運動を継続すること。それはもちろんとして、一連の運動と事件にかかわった当事者としての証言と、正確な記録を残すことは、最小限の義務なのではないか。
 興味本位の歪曲された著作はいうにおよばず、何人もの作家が連合赤軍事件をテーマとする真摯な作品を上梓するのを見たとき、とりわけ、訴訟上の必要から記述に偏りのある供述調書さえ、確定後一定の日時を経た後は廃棄される現実を知ったとき、当事者としての証言と、正確で多面的な記録を残すことは、なににもまして重要な課題であると私たちは考えました。
 このようにして、統一公判控訴審判決のあとの懇親会を行っていた居酒屋で、記録を残すための活動が始まり、翌87年の1月に「会」が発足しました。
 以後、毎月のように会合を持っていた初期から、年に数回、半ば飲み会のようにして集まっていた時期も含め、多数の関係者の協力を得て、聞き取りのテープがたまっていきました。多くの人たちが、私たちの要請に快く応じて、数日の聞き取りの会に参加してくれました。こちらから出かけていって、話を聞かせていただいたこともあります。
 「残す会」には、当事者だけでなく、当時、運動に関わっていた人たちや、当事者の友人、さらに、運動とは無縁だった人も加わりました。

 会が発足した1987年の12月に、17回忌の法要を持ちました。その時大阪から参加した若宮正則さんは、数年後にペルーで亡くなりました。初期の運動の推進力で、17回忌法要にも僧衣で参加していた三戸部貴士さんは、八王子で行った「残す会」の合宿に、入院中の病院を抜け出して参加してまもなく、他界されました。
 会の活動を始める少し前、三戸部さんたちと倉淵村を最初に訪れたとき、埋葬地の杉林は鬱蒼と茂り、地元の僧侶が建立した「阿字の子」の慰霊碑は、光の射さない薄暗い木陰に建てられていました。(慰霊碑には、「阿字の子が阿字のふるさと立ちいでて、また立ち皈る阿字の故郷」と刻まれていました)
 しかし、事件直後に遺族の方が送ってくれた写真では、杉林も植林後余りたっておらず、人の丈ほどの若木が明るい草地に伸びていたのです。
 皆でお参りしてからさらに10数年経った、いまから6年前の1997年の5月、「跡地を巡る」慰霊の旅に何台もの車を連ねて回ったとき、埋葬地の杉林は開発されて跡形もなくなり、大規模な養鶏施設の敷地となっており、「阿字の子」の石碑は移設されて、事件当時のように若い杉の木立に囲まれていました。

 このように長い年月、私たちは「連合赤軍事件の全体像を残す会」の活動を続けてきました。その間、膨大な量の聞き取りのテープが溜まって行きましたが、公表の準備は遅々として進みませんでした。
 2003年2月、事件後30年を期して「殉難者追悼の会」を開催しましたが、これを機にようやく公開の計画が具体化していきました。
 そろそろ、記録を公にする時期が来たのではないか。当事者にとってなまなましく、傷口に塩を擦り込むような思いが、薄皮をはぐように消えていった年月を経て、ようやく、公開が可能な段階になったのではないか。
 他方、関係者の中にも物故者が現れ、時機を逸すると、残る関係者からの聞き取りや、会の成果を検証していただく機会も逃してしまうことが危惧されました。

 このようにして、次のような形での公開が計画されました。
・インタビューの内容を正確に記録する。
・定期的に隔月に発行する。
・3年程度で完結するように計画する。
・残る関係者からの聞き取りも、余さず行うよう、努力する。
・制作、発行の費用は、予約購読料によってまかない、年額(6号分)6000円とする。
・購読の呼びかけは、関係者のみならず、研究者、図書館などに対して広く行う。

 皆さまが以上の趣意にご賛同くださり、「証言」を購読していただけますよう、お願いいたします。

2004年4月